墨攻(ジェイコブ・チャン)

 
「これは見に行かねば」と思った。なにせ主人公が革離さんである。オフ会でお土産まで貰った身としては、観に行かねばなるまい*1
映画館に入ると、なぜか高齢者の方々が多い。しかも夫婦(恋人?)で観に来ている。
原作*2のファンは年齢層が高いのだろうか?
 
観覧者の年齢層は高いが、映画自体は今風である。とにかくストーリ展開が早い。
何とか着いて行ったが、××が死ぬシーンで遂に置いて行かれた。なぜ死んでしまったのだろう?*3
 
早すぎる展開以外にも問題は多い。
例えば騎馬隊を率いるヒロインの声が高すぎる。体格も華奢である。
あの声あの体格で命令しても、なかなか部下は従ってくれまい。
 
しかし、ふと思う。
その昔、教師は教師、医師は医師というだけで尊敬されていた。
中間管理職だって、それなりに尊敬されていたっぽい。
尊敬されれば、人はそれに応えようとする。結果、尊敬できる教師や医師が多かった。
中間管理職は知らない。
 
墨攻のヒロインの地位は、生得の権利により得たものである。その時代その地域で、生得の権利が非常に重視されていた事は、想像に難くない。
ならば、声が高かろうが体が小さかろうが、尊敬は得られる。現実社会においては、尊敬が得られ、その尊敬に応えられるだけの能力・人格を持つなら、声色などの演出は不要である。
 
現在の日本は、生得の権利をはじめとする「肩書き」に、あまり価値を置いてない。それはtemaにとって心地よい状況ではある。しかし一方では、「尊敬されるための演出を練る」という非生産的な行為をしなくてはならない。
能力・人格が優れた人ならば、いずれ他の人も分かってくれ尊敬されるかも知れない。しかし、それでは遅い。

生徒の親は、先生と話す機会など多くは無い。病人や家族が医師の人となりを知ることが出来る程、医師は暇では無い。プロジェクトは、1ヶ月で結果を求められる場合がある。
このような状況で尊敬を受けるためには、演出に頼らざるをえない。
 
教師や医師および管理職は、尊敬されなければやりづらい。しかし、演出も巧く行かない場合が多い。
ならば、肩書きが価値を失った現在、尊敬抜きで対応する方法を見つけなくてはならないのかも知れない。
その方法は幾つかあるのだろうけれど、そんな教師、医師、管理職ばかりの社会は気にいらないと思うのである。
 
墨攻は、尊敬されるために演出など不要だった時代の物語である。
ほんの数十年前の日本にも、その傾向は有った。
それゆえ、高齢者の方々はヒロインの声や体格など気にせず、楽しめるのかも知れない。

墨攻 (新潮文庫)

墨攻 (新潮文庫)

*1:オフ会にアンディ・ラウが来たワケではありません。念のため

*2:1991年作

*3:というより、なぜ誤った情報が伝わったのだろう?