博士の愛した数式(小川洋子)

 
ラブ・ストーリィである。ちなみに「ラブ」は愛を意味し、「ラヴ」が恋を意味する*1
正直に言えば、友愛の物語である。「私」と「ルート」が、普通なら関わらないと思われる「博士」と、友情を育む物語である。
 
博士はオタクであり、引きこもりであり、脳に障害を持っている。「普通」の母親なら、子供を近寄らせたく無い、と思うはずである。故に、自分が「普通だ」と思っている母親なら、この小説を読んで感動するべきでは無い。博士は良い人だ、などと思うべきでは無い。それが、一般的な常識というものである*2
その常識に反して、博士と友情を育む私とルートは、常識を超越した人物である。
 

以後、ネタバレ注意!

 
この小説の重要な場面で、以下の数式が出てくる。
 e^πi+1=0*3
この人類の至宝と呼ばれる「オイラーの等式」が出てくる場面を引用する。

「義弟には友人などおりません。一度だって友人が訪ねてきた例しなどないんです」
「ならば、私とルートが最初の友だちです」
不意に博士が立ち上がった。
「いかん。子供をいじめてはいかん」

そうしてポケットから取り出したメモ用紙に博士が記述した数式が、「オイラーの等式」である。
 
小説中では、なぜ博士がオイラーの等式を記述したか、それを見た義姉がなぜ友情を認めたのか、明示はされていない*4。この理由を考えてみた。
 
オイラーの等式には、謎の数が3つ出てくる。
 π:円周率
 e:ネイピア数。e^xを微分するとe^xになる、という数である
 i:虚数単位
この3つの数が、私、ルート、博士を表しているのは明らかである。
誰がどの数値に当たるか、と考えた場合、真っ先に思いつくのがi=√(-1)=ルートである。しかしこれは座りが悪い。引きこもり、現実社会から離れて暮らしている博士にこそ、実数軸から離れた場所に位置するiが相応しい。博士は、私とルートに導かれることで初めて、実数軸に(現実社会に)影響を与える(関わりを持つ)ことができるのである。
残りの2人と2つの数値については、決め手が無い。ただ、e(=2.718…)<π(=3.14…)であることと、グラフのイメージから、π=私、e=ルートとしたい。
 
とまれこの式は、一見関わらないように見える3つの数が実は結びついているように、3人もまた結びついている、ということを示している。
 
ただ、これだけでは無い。もう1人の登場人物−義姉が居る。そして、オイラーの等式の左辺にも、いま1つ数値がある。
 1:実数の(乗法の)単位元
オイラーの等式を成立させるためには、普通の、四角四面な1が必要となる。π,e,iが0に抱き留められ一体となるためには、1を加えなくてはならない。
ここで発想を転換する。iと1が0に抱き留められ一体となるためには、πとeが必要なのだ。
 
この小説の裏には、1とiの物語が在る。
その昔、義姉と博士は、想いを寄せ合っていた。当時、博士は−1であり、1と足し合わせるだけで0の懐に抱かれ一体となることができた。
しかし17年前の交通事故により、二人には平方根がかかってしまった。1の平方根は1であり、義姉は変わらなかった。しかし、博士はiとなり実数軸(現実社会)から外れた存在となってしまった。そして何よりも、1+iは0にならない。
 
iを実数軸に関連づけるためならば、超越数であるπとeがあれば良い。しかし、それだけなら以下の記述でも意味が足りる。
 e^πi=−1
iと1だけではだめだが、πとeが居てくれるならiと1は0に抱き留められる。否、πとeが居なければ、iと1が結ばれることは無かった。無限に伸びる実数軸、どの線分を取っても無限の要素を含む世界で、πとeと出会う確率は0である。
確率0の事象が発生することは、奇跡と呼ばれる。
 
博士が義姉に向けたメッセージは、このような意味であったと考える。愛を込めて宝石を贈るように、博士は人類の至宝に愛を込めて義姉に贈ったのである。
博士が書いたメモを手にしなかった義姉は、愛を、メッセージを受け取らなかったわけでは無い。本当の直線が紙の上には無く胸の中に在るように、本当のオイラーの等式も胸の中に在る。その「本当」は義姉に受け止められていた。πとeを呼び寄せたことが、その回答である。
 
だからこの小説は、引き裂かれたiと1の2人に奇跡が起きた、というラヴ・ストーリィである。

博士の愛した数式

博士の愛した数式

*1:大嘘

*2:無論、皮肉です

*3:小説内では「オイラーの公式」と記述されているが、正しくは「オイラーの等式」である。気になるので改版時には直して欲しい

*4:映画内ではされているらしい