沈黙(遠藤周作)

 
temaにとって文章は、情報伝達のための道具である。このため、情報伝達効率を高くするよう−−誤解を少なくするように*1、理解しやすいように−−こころがけている。しかし、情報伝達効率を優先した場合、言葉としての美しさは損なわれがちになる。
例えば句読点の付け方にしても、理解しやすさを考えて付けると、文毎に句読点の密度が違ってくる。ある行では細かく付けて、別の行では殆ど付かない、ということになる。しかし、これは言葉として美しくない。文のテンポが崩れ、結果的に読みづらい文章になることもある。
 
temaは、ごく稀に純文学も読む。
純文学は、情報伝達効率と言葉としての美しさを両立させている。
この両立が純文学の本質だ。
 
「沈黙」は、どの行を見ても美しく読みやすい*2。その裏では様々な考慮がなされている。
自然に見せるために様々な(人為的な)考慮を行う、それが芸術活動なのかも知れない。
 

以下、ネタバレ注意

「沈黙」は、純文学である。
「沈黙」は、キリスト教徒として、信仰について考えさせられる切っ掛けである。
そして「沈黙」は、推理小説である。
 
この小説の冒頭で、2つの謎が提示される。
1.元宣教師フェレイラは、なぜ棄教したのか
2.フェレイラは、どうやって棄教させられたのか
この謎は主人公であるロドリゴにより解かれるのだが、もうひとつ謎が残る。
3.なぜ信者や宣教師は、踏み絵を踏まなかったのか
 
たとえば、temaの家族が役人に銃を突き付けられたとする。
役人が、temaの友人の写真を差し出し「これを踏まねば撃つ」と言ったとする。
temaは踏むだろう。
もし写真に写った友人が横に居たら、言うはずである。
「踏むがいい」
「つか、俺が踏んでもいい」
 
temaの友人ですらこれである。ましてや相手はイエスだ。
救世主である、聖人である、Good guyである。
「俺自身を踏んでくれたっていい」くらい言う人である。
 
なぜ踏まなかったのか。
 
理由は色々考えられる。
一人が踏めば皆の心が乱されるだろう。踏んだ者が宣教師であればなおさらである。
踏まずに処刑されれば殉教者として天国に行ける、そう思ったのかも知れない。
恐怖や憐憫に負けて棄教すべきでは無いからだろうか。
 
しかし、踏まずに処刑されたなら、それは限りなく自殺に近い。
なにより、その行為はイエスの御心に沿ってるとは思えない。
 
「もし基督がここにいられたら、たしかに基督は、彼等のために、転んだだろう」
小説内で、フェレイラ*3が告げた言葉である。
ああ、イエスならば躊躇うことなく踏むだろう。
ただ、それは必死の祈りに神が何も答えないからでは無い。彼にとって愛が何よりも、信仰よりも重いからだ。彼の事を思い、彼に近づこうとしていた宣教師達が、それを判ってなかったはずは無い。
判っていながら、なぜ皆踏まなかったのか。
 
多分、人には譲ることができない部分がある。
譲ってしまえば、最早自分では無くなる、そのような部分がある。
例えば、神(または自分)に対して誓いを立てその誓いに従って生きてきた人にとって、誓いに反する行動を取ることは、それまでの生き方を否定することになる。
それまでの数十年の人生を、自分自身を、価値が無いものとして自ら捨ててしまう。それは人によっては死よりも辛いことだ。
 
temaにも、譲ることができない部分がある。死を選ぶほどでは無いが。
たとえ愛を失い、自分や他人を不幸にしたとしても、貫きたい誓いがある。
誓いを取るか愛と幸福を取るか、悩み抜いたあげくに結論を出せないことだってあるだろう。
ただし、悩み苦しみ、死を選ぶ直前、きっと神は沈黙を破る。
「全ての葛藤を、悩みを、共に背負うために私は在るのだ」、と。
 
その時、temaの神ならば、愛と幸福を選ぶに違いない。
 

神は沈黙せず

神は沈黙せず

*1:時にはワザと誤解を生むように

*2:最終章は読みにくいが

*3:フェレイラとメフィストフェレスは、ちょっと似ている