ニューロマンサー(ウィリアム・ギブスン)

 
1980年代、S.F.界にサイバーパンクというムーブメントが発生した。爆発した、と言っても良い。
2000年代、temaの職場でサーバーパンクという事件が発生したのだが、それとは関係無い。
サイバーパンク・ムーブメントの引き金を引いた小説にしてバイブル、というよりこの小説を表す言葉として「サイバーパンク」という言葉が作られた。そんな小説がこの「ニューロマンサー」である。
 
S.F.のあらゆる賞を総なめにしたこの小説、S.F.の枠を越えて話題になった。「ニューロマンサー」の名はサブカルチャー紙にも掲載され、書店でもS.F.の棚では無く店頭に平積みされて売られていた。
S.F.小説がこれほど話題になったことは、他には覚えが無い。
 
temaが本書を買ったのはムーブメントが落ち着いた1990年頃。
読んだ…が、ワケわからん!
内容は大筋で理解できた。様々なS.F.的ガジェットには、なるほどと思った。今まで読んだことが無いタイプの小説であることも分かった。
分からなかったのは、本書の良さである。
皆が手放しで誉める良さ、それがtemaの心にはまるで響かなかった。
 
人が分かっていることが自分には分からない。これは結構悔しい。
本当に、みんなこれが良いと感じているのか?
そう思いながら再読を重ねていった。
 
本書の問題は、読みづらい文体にある。
全般的に説明不足であり、原文自体かなり特殊な文体らしい(「過剰充電(ハイパーチャージ)された文体」とどこかで記載されていた)。その上、日本語版では翻訳の際に追加充電されている。
この文体により、一文読むたびに文意を解釈し、頭の中で一般的な文体に翻訳しなくてはならない。解釈できずに意味不明のままとなる文も多い。
このことが、読者が小説内の世界に入り込むことを妨げている。
 
結局、この小説の良さが分かるには10年程度必要とした。
 
本書の魅力は、その文体にある。
原文自体、過剰充電された文体であるが、日本語版では翻訳の際に追加充電をしてくれている。
幾度も読み返して内容を把握し、この文体を通して小説内の世界を見れるようになった時、この小説の魅力が伝わる。この小説内世界を記述するに、この文体はとても相応しい。この文体を通して見るこの小説内世界は、とてもクールでシャープである。
 
翻訳者の黒丸尚は、小説の魅力を損なわずに更なる魅力を引き出すことに成功している。
その追加充電の方法は日本語独特のもので、他の多くの言語では出来ない。
このためこの小説は、原書よりどの訳書より、日本語訳が素晴らしい。
黒丸尚は天才だ。
 

以下、ネタバレ注意!

正直、再読は辛かった。
主人公のケイスには感情移入できず、様々な登場人物はイメージが掴めなかった。
ただこの小説は(意味はとりづらいものの)心に残る文章が時折表れる。
特に心に残る部分を、以下に引用する。

「おまえは、もう一つのAIだ。リオだ。冬寂(ウィンターミュート)を止めたがってる奴だ。名前は何だ。チューリング暗号(コード)は、何なんだ」
少年は波打ちぎわで逆立ちし、笑い声をあげる。逆立ちのまま進んで、ぴょんと水辺から出る。眼はリヴィエラの眼だが、悪意はこもっていない。
「悪魔を呼び出すには、そいつの名前を知らなくちゃならない。人間が、昔、そういうふうに想像したんだけど、今や別の意味でそのとおり。わかってるだろ、ケイス。あんたの仕事はプログラムの名前を知ることだ。長い正式名。持ち主が隠そうとする名。真の名−」
チューリング暗号はお前の名前じゃない」
ニューロマンサー
と少年は、切れ長の灰色の眼を、昇る朝日に細め、
「この道が死者の地へと繋がる。つまり、あんたが今いるところさ、お友だち。マリィ=フランスが、わが女主人がこの道をととのえたんだけど、そのご亭主に縊り殺されて、予定表を読ませてもらいそこなった。ニューロは神経−銀色の径。夢想家(ロマンサー)。魔道師(ネクロマンサー)。ぼくは死者を呼び起こす。いや、違うな、お友だち」
と少年はちょっと踊って見せて、褐色の足で砂に跡を印し、
「ぼくこそが死者にして、その地」

最初に読んだ時、意味が判らなかった。
説明不足である。話が飛んでいる。比喩が多すぎる。
読者の理解を拒否するような文体である。
しかし、意味は理解できないものの、この文章には引きつけられる何かがある。
 
上記の記述は一見非科学的に、神話的にすら見える。
はじめは神話的な内容としか思えなかった。文章の表面のみを認識し、その内の意味を理解できなかったためである。
実はこの記述は、技術とロジックに裏打ちされている。内容を解釈し、そのロジックに到達した時、大きな感動が得られる。
 
充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない*1
そのロジックに裏打ちされたマジックの世界が与えてくれる感動こそ、センス・オブ・ワンダー、S.F.の醍醐味である。そしてその感動は、かつては神話が与えてくれていた。
 
近年、人の心の中で科学の価値が大きくなるにつれ、神様の居場所は狭まって来た。結果、それまで神様が与えてくれていた価値観・行動指標が失われ、神話が与えてくれていた感動も(科学に捕らわれた人には)味わうことが難しくなっている。S.F.は、その感動を変わりに与えてくれる現代の神話である。
そこに在るのは論理で構成され技術で肉付けされた神だが、それでも感動は本物である。
 
本書もまた神話であり、特にキリスト教のイメージがある。例えば、上記の記述は、「荒野の誘惑」を思わせる。
ケイスがイエスに該当し、彼を誘惑する悪魔がニューロマンサーである。
 
キリスト教における神は父・子・精霊が三位一体となった存在であるが、本書の最終章では、その神にあたる存在が登場する。
そして、その存在に向けたケイスの最後の言葉は、イエスの最後の言葉「神よ、なぜ私を見捨てられたのですか」と対比すると、とても興味深い。
そのシーンは、確かにニューロマンティックな終幕である。
 

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

*1:by A.C.クラーク