現実社会とトンデモさん

 
科学の世界では、膨大な前提から複雑な論理を構築することを求められる。複雑すぎて普通の言葉では考えられない。このため、複雑な内容を扱うための専門言語である「数学」を使うのだが、数学を使ってもなおかつ複雑である。
なぜなら、世界は複雑だからだ。
 
一方、現実社会では複雑な論理を使う機会が少ない。
理由の一つとして、「論理的正当性より説得力が重視される」ということがある。論理的正当性も説得力を増すための要因であるが、相手に理解されなければ効果が無い。下手をすると「自分が理解できないのは、相手が騙そうとしているからだ」と思われ、逆効果である。
 
少数の前提から単純な論理を基に作られるトンデモ系の主張は、明快で分かり易い。分かり易さが説得力を持つのである。
単純な論理を構築した後、他の情報は必要が無い。このため、新たな情報採取は必要無く、論敵などから提示された情報も抽出時に対象外とするため、判断がぶれない。
何より、自分の主張に自信を持ってることが強い。プレゼンテーションする際の迫力が違う。
 
このように、現実社会ではトンデモ系の主張の方が説得力がある。つまり現実社会では、トンデモ系の主張が真実となる。
temaだって会社で作る報告書は、トンデモ系が多い。目的が事実を示すことでは無く、相手を説得することにあるからだ*1
 
社会が、事実より論理的正当性より説得力を重視する以上、「トンデモ」というミームは適応しており、増え続けるだろう。社会が充分な力を持ち、事実と向き合わずに済むようになっていれば、「科学的思考」はむしろ不適応なミームとなる。そして現在の日本社会は、かなりの力を持っている。
 
つまり、トンデモさんは現代日本社会に適応しており、科学的思考を行う人の方が不適応者である。学校の目的が「社会に適応した人物を育てること」ならば、「ゲーム脳」や「水からの伝言」を授業に使うことは目的に適っているのである。
 

正論なのに説得力のない人ムチャクチャなのに絶対に議論に勝つ人 正々堂々の詭弁術

正論なのに説得力のない人ムチャクチャなのに絶対に議論に勝つ人 正々堂々の詭弁術

*1:数頁に渡って構築された論理など、読んでも貰えない

 論理的なトンデモさん

 
自然科学系のweb掲示*1を覗くと、時折トンデモさんが現れる。そのような人と議論をするのは楽しい。
temaが良く目にするトンデモさんの特徴は、以下の通り。

a.事実では無く善悪で判断することが多い
b.自分の意見に絶大な自信を持っている
c.前提となる知識が不足している

 
トンデモさんと議論をすると、「理屈が通らない」と感じることが多い。しかし、自然科学に関する議論に於いて、「論理的で無い」ということは致命的である。それはトンデモさんも認識しているはずだ。
となれば、トンデモさんは「自分の主張は論理的である」と考えており、その主張にはトンデモさんなりの理屈がある、と考えられる。
 
簡単なのは、上記aの場合である。

a−1.A氏は善い人だから、嘘をつくはずがない
a−2.善人のA氏を責めるB氏は悪い人である。我々を騙そうとしてるに違いない

一応理屈ではある、ただし穴だらけ。特に大きな穴は「嘘では無いが事実に反する」という状況を考慮して無いことである。
 
善悪を持ち込まないトンデモさんも居る。この場合、上記bを満たすことが多い。というより、絶大な自信が無ければオーソドックスな科学理論を受け入れるため、トンデモさんたりえない。
なぜそこまで自信が持てるのか。その理由は、上記cにあると考える。
 
本来膨大にある情報から、少数の情報を抽出して前提とする。それだけを基に、単純な論理を使って結論を導き出す。これがトンデモさんの主張である。
前提が少ないからこそ、考慮すべき点を絞ることができる。論理が単純だからこそ、(その論理だけ見ると)誤りが無い。故に、自説に絶対の自信が持てるのである。
 
このようなトンデモさんは非論理的なのでは無く、大量の前提を持つ複雑な論理を扱うことが苦手なのだ。彼・彼女等の心中では充分に論理的であり、全ては明白なのである。
トンデモさんからすれば、オーソドックスな科学的判断を行う人の論理は、まだるっこしくて仕方ないはずだ。
なお、大量情報の処理に慣れておらず、多数の命題を同時に考えられないため、各命題間の矛盾に気づきにくい。それがダブル・スタンダードとなって表れる。
 
膨大にある情報から、少数の前提を抽出できるトンデモさんは、情報の抽出能力が高い。
少数の情報に集中できるため、判断も速い。
情報を取捨選択し、素早い判断を行える。トンデモさんは見方によれば有能なのである。
 
喩えるなら、トンデモさんの脳は2stレーサ・レプリカのバイクである。回転は速く加速も良いが、大荷物は運べない。
しかし、思考にはダンプカーが必要な場合だってある。
 
科学的思考を行う場合も、それなりに大量な情報を処理する必要がある。
高回転であっても大量情報の処理に慣れてない脳は、科学的思考が不得意である。限られた情報にのみ着目して、即座に結論を出そうとする。でもそれは、トンデモに続く道である。
 
以上の通り、高回転型の脳はトンデモ系思考に流れ易く、科学的思考には向かない。
つまり、西之園萌絵は自然科学の研究者に向いてない。
 
犀川創平も頭の回転が速い。本来ならば研究者には向かないはずであるが、彼はその欠点を補うために、複数の思考をマルチタスクで行っている。つまり、犀川創平の多重人格症は、彼が科学者であるために必要な事なのである。
 

すべてがFになる (講談社文庫)

すべてがFになる (講談社文庫)

*1:最近医者系のblogが多いが

 スカイ・クロラ(森博嗣)

 
森博嗣原作のこの小説が、押井守監督で映画化されるらしい。
正直、この2人の相性は悪いと思う。
 
森博嗣の小説は映画に向かない。普通に読んでいてはセリフが繋がらないのだ。たった一行のセリフの裏に、何行もの論理的ステップが隠されているからだ。
セリフの裏にある理屈が判れば楽しめるが、それには複雑な論理的思考を求められる。
映画のスピードで理解できる人は、よほど頭が良い人だけだろう。
  
押井守の映画には脳天気な原作が必要だ。勝手にやらせてると、「天使のたまご」や「紅い眼鏡」などワケのワカランものを創ってしまうからだ。
世界観を共有できれば楽しめるが、それには膨大な想像力を求められる。
映画を一回観ただけで世界観を共有できる人は、マニアだけだろう。
  
結果、情報過多なのに説明不足。膨大な想像力と複雑な論理思考を求められる映画になる。商業的には成功しないだろう。
ただし、2人とも魅力ある言葉・シーンを創ることができる。
ワケが分からないがどこか魅力的で、何度も繰り返して観る度に新たな発見がある。そんな映画になると想像する。
 

スカイ・クロラ

スカイ・クロラ

 危険な出産

 
実家に行った際、産科崩壊の話になった。
最近聞きかじった知識を、母に披露する。
出産は安全だと思ってる人が多いけど、実は結構危険らしいんです。
「そんなの判ってるよ。アナタのせいでどれだけ大変だったか」
ヤブヘビであった。
 
temaは胎児の時、子宮内でくるくる回ってたらしい。
そう言えば、小学校の通信簿には「落ち着きが無い」と書いてあった。器械体操も得意であった。
へその緒が首に巻き付いてる可能性が高いと言われ、母は死産を覚悟したらしい。
 
母は当時の女性としては、かなり体が大きかった。現代の若者に比べても、まだ高めである。
一方、temaは成長が遅かった。
臨月になって母が診察を受けに行ったところ、医師曰く
「今日はどうされましたぁ?」
腹が目立たなかったらしい
 
temaは成長が遅いだけでなく、寝坊すけであった。
いくら待っても生まれる気配が無い。
予定日を1ヶ月過ぎた頃、「これ以上は胎盤が持たない」との判断により、薬を使って強制的に目覚めさせられたらしい。
 
出産の時も大変だった。少し前話題になった胎盤癒着である。
出産直後に大出血が発生し、危なかったらしい。
母曰く
「おかげで保険対象になって、後でお金が戻ってきたのよ」
親孝行なtemaであった。
「でも数日後、また大出血して大変だったのよ」
やはり親不孝なのかも知れない。
 
いずれにしても、もっと昔だったらtemaか母は死んでいたかも知れない。
現在であっても、死んでいたかも知れない。
クジ運が悪いtemaであるが、生まれた時代と親には恵まれていたのである。
 

医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か

医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か

 
追記:2007.7.10
NATROMさんの所の「信仰と狂気〜吉村医院での幸せなお産」を読んだ。
 
問題の赤ちゃんは、出産予定日が11/9、誕生日が12/11である。
ちなみにtemaは、出産予定日が11/3、誕生日が12/1である。
偶然ではあるが、あまり他人事とは思えない。
 
temaは母と父を、自分の命をかけて結びつけてはおらず、「素晴らしい場所」にも連れて行かなかった。しかし後悔はしていない。
生後3日で死ぬ人生より、今の人生の方がtemaは好きなのである

 桜さくら

 
それは3月後半、ソメイヨシノが咲き誇っていた頃。ちょっと遠回りして桜を見ながら帰った事がある。
武道館を抜けると、道路の向こう側に神社が見えた。祭りでもやっているのか、屋台が並んでいた。広い境内に入ると、満開の桜の下で宴会が行われていた。
靖国神社だった。
 
靖国神社国家神道を捨て、神道の神社になっている。ただ、それでもこの神社は特別だ。
他の神社は、生きている人を救うために在る。
しかし靖国神社は、英霊を奉るこの神社は、死にゆく人を救うために在る。そして現在、靖国が救うべき人々はすべからく死んでいる。
靖国神社は、死者を救うための神社だ。
 
靖国神社の桜は特別だ。
「死んで、この桜の花となろう」そう願って兵士は戦地に向かい、英霊となった。
ならば、靖国神社の桜は英霊であり、その桜が舞う地は死者の地である。
笑いながら酒を呑んで良い場所では無い。
 
数百年経ち、誰もが忘れてしまった後なら、かまわないだろう。
しかしまだ60年、まだ忘れるには早い。
靖国神社は、少なくとも桜の時期は、宴会などさせてはならない。
死者と、死者を覚えている人のために在るべきだ。
 
ただし、
宴会している人々が、これから戦死する予定ならば別である。
 

靖国問題 (ちくま新書)

靖国問題 (ちくま新書)

 役立たずな数学

 
4/11の日記にwadjaさんが以下のコメントを書いてくれた。

役に立たないなら、wadjaは詐欺師です。娘には「今は役に立たないと思ってても、きっと役に立つことが一生に一度は有るから」ってゆうてるんですがw

読んだ瞬間、「しめた」と思った。以前お蔵入りにした文章が使える、と思ったからだ。
お蔵で文章を検索した。
消えてた。
 
「算数」は、実生活に是非とも必要である。
しかし「数学」となると、実生活ではまず役に立たない。
例えば微積分が役に立つだろうか?
確かに人工衛星の制御等には必須である。建築の構造計算にも欠かせない。
しかし微積分が発見された16世紀には、人工衛星も構造計算も無かった。
 
まだ微積分はいい。少なくとも力学の発展に役立った。
数論*1が役に立ったことがあるだろうか?
無い。まるで役立たずである*2
 
役には立たないが、数論は偉い。
数学の世界では、役に立たない領域ほど偉い事になっている。
ガウス*3曰く、「数学は科学の女王であり、数論は数学の女王様である」
洗濯や建築を行い、人々の役に立っている女王様が居るだろうか?
そもそも女王様は何らかの役に立つから在るのでは無い。美しいから人々が求めるのだ。
同様に、数学は役に立つから作ったのでは無い。美しいから探求して来たのだ。
 
そんな数学であるが、役立つこともある。
実際には役立つどころでは無い。科学理論は「数学」という言語で記述されており、数学を知らなければ本も読めない。
女王の中の女王様たる数論といえども、計算機科学で使われている。ガウスが知ったら、さぞかし驚くことだろう。
 
ただし、これは数学の本来の姿では無い。数学の目的とは違う。
「数学が役に立つ」という言葉は、「女王様の御身を飾る装飾品を、下賤な者どもが押し戴いている」という意味にすぎない。
つまり
足下に這い蹲る自然科学に対し、数学は靴を向けて言っているのである。
 
「お舐め」
 

ガウス 整数論 (数学史叢書)

ガウス 整数論 (数学史叢書)

*1:オイラーの等式フェルマーの最終定理を生み出した領域

*2:少なくとも70年前までは

*3:数論の凄い人

 悪魔の代理

 
例えば、我が子が死んだとする。
理由は判らない。
当然、親の気持ちは収まらない。何らかの理由を、それも自分が納得できる理由を求める。
ところが、都合の良い理由はそうそう見つけられない。
その昔、そんな行き場の無い想いは悪魔が収めてくれていた。
 
その昔、理由の見つからない不幸は、全て悪魔の所為にできた。
全ての想いを悪魔に押しつけることで、人は次に進む事ができる。
しかし、現代日本には悪魔が居ない。悪魔は居ないが、理由不明の不幸は発生する。
このため、悪魔の代理を立てた。例えばタミフルである。
 
残念な事に、タミフルには悪魔ほどの力が無い。
不幸が発生する前に服用してなくてはならないし、全ての不幸を収められるわけでは無い。
悪魔は滅ぼすことが出来ないが、タミフルは一掃することが出来てしまう。
 
タミフルの副作用を叫んでる人々が、タミフル無き後の事を考えているとは思えない。
タミフルが無き後は、次の悪魔の代理を捜さなくてはならない。
最近の風潮を見ると、次の代理は産科医を含む医師である。
既に医師を滅ぼそうとする動きもあるが、「医師は必要だ」という意見もあるため、簡単には行かない。そもそも滅ぼされては、temaが困る。
 
現代日本に神は必要無いと思うが、悪魔は必要である。何かもっと都合が良いものを悪魔にしてくれないだろうか?
例えばネクタイとか。
 

悪魔に仕える牧師

悪魔に仕える牧師